2012年4月19日木曜日

3月例会 安部市長との意見交換会で話させていただいた招魂碑について



3月例会 絆プロジェクト 
~米沢市と公益社団法人米沢青年会議所との連携~ 
多くのメンバーの参加をいただきました。今後、米沢市との連携を図っていく上で、貴重な機会になったと思います。相田委員長をはじめとする絆プロジェクト委員会のメンバーの皆さん、例会に参加いただいたメンバーの皆さん、ありがとうございましたm(__)m


3月に行われた市長例会でも話させていただいた雪灯籠まつりの鎮魂祭が執り行われる旧米沢城本丸に鎮座する”招魂碑”。安部市長からも話がありました米沢の冬の風物詩ともいえる雪灯籠まつりの”祭りの精神”。以前、私がちょろちょろと調べて4年前に山形県歯科医師会の会報に寄稿した記事があります。このブログにも折角なので一部掲載してみます。米沢の先達の心の温かみを感じずにはおれません。

 
米沢城本丸跡の石碑と米沢藩士・斎藤篤信について

おらほのたより(注・山形県歯科医師会の会報の記事テーマ)の原稿をまかされ、前から気になっていた米沢城本丸跡の石碑について少し調べてみました。

この石碑は凝灰岩で高さ約3・4メートル、総高約5・8メートル。そこには“招魂碑”と雄渾な文字が刻まれている。この招魂碑は、戊辰戦争で主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するため明治11年4月に建立されている。碑は、米沢城本丸の東南隅・藩祖上杉謙信公の遺骸が納められていた祠堂跡の隣に建立されている。また毎年2月に開催される雪灯籠まつりの鎮魂祭は、この地で執り行われている。

この碑名は、戊辰戦争で米沢藩の参謀を務めた斎藤篤信(後の山形県師範学校初代校長、学習院教授)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものと伝えられている。篤信は、戊辰戦争を回避すべく西軍総督府への嘆願の申し出を画策するも叶わず、米沢藩参謀として奮戦する。しかし戦い利あらず、篤信は藩の命により西軍と講和を結ぶことで、会津・庄内攻撃の西軍の討伐応援を命じられる。だが、今までの味方を討つのは忍びない、として両軍との講和を取り持つ役を任されている。

一方、明治2年には戊辰戦争での西軍の戦没者を慰霊するための東京招魂社(現在の靖国神社)が建立され、その後に勃発した戦争の戦没者が祀られているものの、戊辰戦争での東軍の戦没者が祀られることはなかった。なお、篤信が米沢に招魂碑を建立した翌年、東京招魂社は明治天皇の命名で靖国神社と改称されている。

斎藤篤信が揮毫した招魂碑からは、米沢藩のみならず東軍の戦没者への慰霊と戊辰戦争を回避できなかった篤信の無念さを感じずにはいられない。そしてその力強い筆の運びと字体には、共に戦った戦友を思う心と精魂を込めた気迫が満ちている。毎年春には、米沢城址と招魂碑は桜の花々に埋め尽くされる。折しも今年は戊辰戦争から140年という節目の年を迎えている。  
          


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